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エックハルト・トール
エックハルト・トールの『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる 』(徳間書店、2002年)に私は大きな影響を受けました。この本の冒頭には、彼自身の覚醒体験が語られています。非常に印象深く、 この事例集にぜひ取り上げたいと思いました。以下にその体験を紹介し、若干 コメントを付け加えます。
◆あらゆるものに息づく生命
トールは、三十歳になるまで、たえまのない不安やあせりに苦しみ、自殺を考えたことも あるほどだといいます。 二十九歳の時のある晩、夜中に目を覚ました彼は「絶望のどん底だ」という強烈な思いにおそわれました。あらゆるものの存在が無意味に思われ、「この世のすべてを、呪ってやり たいほど」でした。しかも、自分自身こそが、もっとも無価値な存在のように感じられたの です。 「こんな悲惨な人生を歩むことに、いったい、なんの意味があるというのか? どうして、 これほど苦しみながら、生きていかなければならないのか?」
わたしの中にある「生きよう」という本能は、「もう存在したくない、いっそのこと消え てしまえたらいいのに」、という悲痛な願いに押しつぶされていたのです。わたしの頭の中 を、「こんな自分と生きていくなんて、まっぴらごめんだ!」という思いが、ぐるぐると回っていました。
すると突然妙なことに気づいたのです。「自分はひとりなのか、それともふたりなのだろうか?」 こんな自分と生きていくのが嫌だとすると、『自分』と『自分が一緒に生きていきたくないもうひとりの自分』という、ふたりの自分が存在することになります。そこでわたしは自分に言い聞かせました。 「きっと、このうちのひとりが、『ほんとうの自分』なのだ」 この時、わたしは、頭の中でつぶやいていたひとり言が、ピタリとやんでしまうという奇妙な感覚に、ハッとしました。
わたしの意識はしっかりしていましたが、わたしの思考は「無」の状態でした。次の瞬間、 わたしは、まるで竜巻のような、すさまじいエネルギーのうずに引きよせられていきました。 それは、最初はゆっくりで、次第に速度を増していきました。わたしはわけがわからず、恐怖でガタガタと震えはじめました。 その時「抵抗してはなりません」というささやきが胸に飛びこんできたのです。すると、 なぜか、恐れは消え去りました。わたしが観念して、エネルギーのうず、「空(くう)」に身をゆだねると、わたしはみるみるうちに、その中に吸いこまれていきました。そのあと、 なにが起こったのかは、まるっきり記憶にないのです。
翌朝、小鳥のさえずりに、目を覚ましました。まるで生まれてはじめて聞くかのような、 美しいさえずりでした。目は閉じたままでしたが、脳裏のスクリーンに、さんぜんと輝くダ イアモンドのようなイメージが見えました。「なるほど! ダイアモンドに声があるとするなら、きっとこんな声に違いない!」 わたしが目を開けると、力強い朝日が、カーテンを貫いて、わたしの部屋に降り注いでい ました。この時のわたしは、そのまばゆい光が「人間の英知をはるかに超えた、無限ななにか」であるということを、あたりまえのように知っていました。 「そうか、この暖かい光は、愛そのものなんだ!」 わたしの目には、涙があふれていました。寝床から飛び起き、部屋の中を歩き回りました。 ふだん見慣れているはずの部屋なのに、それまで、そのほんとうの姿を見ていなかったことに気づきました。目に映るすべてのものが新鮮で、生まれたばかりのようでした。手当たり次第に、そこら中のものを拾いあげてみました。えんぴつ、空っぽのビンなど、あらゆるも のに息づく生命と、その美しさに、ただただ驚くばかりなのです。
わたしは町へと飛びだしました。そして、「生命が存在する」という奇跡に感動しながら、町を歩き回りました。見るものすべてが新鮮で、わたしは自分が、赤ん坊にでもなったような気がしました。
◆「十字架の道」を越えて
トールの体験の記述は、その後のことなどまだ続くのですが、中心部分はここまです。こ の体験について感じたことをいくつか指摘したいと思います。
まず「十字架の道」とさとりについてです。 トール自身は自分の体験を次のように説明しています。――この体験が起こった夜、彼の 苦しみは限界に達していた。そのため「自分は不幸で、どうしようもないほとみじめだ」と いう思いを完全に捨て去るほかなかった。この思い(思考のでっち上げ)をあまりに徹底的に捨て去ったので、「にせの自分」は、空気を抜かれてぺしゃんこになってしまった。そこに残ったのが、永遠の存在である「ほんとうの自分」なのだ。――
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』の最後の方でトールは、耐え切れないほどの苦しみのさなかに、追いつめられてやむおえず小さな自己を捨て去り、「手放し」の境 地に至るのは「十字架の道」だと表現しています。ということは彼自身が「十字架の道」に よって覚醒を得たということです。
ところが興味深いことに彼は、「十字架の道」はさとりをひらくための旧式の方法で、つ い最近まではそれが唯一の方法だったが、これからは「十字架の道」だけが唯一の方法ではないといっているのです。さとりをひらくために苦しみを必要としないほど意識のレベルが高まった人間の数も着実に増えているというのです。
「十字架の道」以外の方法とは何でしょうか。伝統的な方法としてあげられるのは座禅、 瞑想といった修行法でしょう。しかし、たとえば臨済禅の方法などを見ると、修行者に「公案」などを課し、精神的に徹底的に追いつめるところがあるようですから、人工的に作られた「十字架の道」かも知れません。
トールがいっているのは、そうした痛みや苦しみを強いる修行法ではないようです。一言でいえば、過去と未来へのしがみつきをやめ、「いま、この瞬間」を100パーセント生きること。時間に生きるのではなく、いつも「いまに在る」ことを選ぶこと。「すでにそうであるもの」を完璧に受け入れること。この道を選ぶと、苦痛なしにさとりをひらけるという のです。
別の箇所では、「ほんとうの自分」「大いなる存在」につながる入口を次のように整理し ています。
1)インナーボディのエネルギー(気)を感じること。 2)強烈に「いまに在る」こと。 3)思考を止めること。 4)すべてをあるがままに受け入れること。
もちろんこの本の中では、これらのそれぞれについて、その具体的な方法にも触れながら 詳しく語っていますから、お読みください。
ともあれ、トール自身は「十字架の道」によって覚醒を得ましたが、現代は必ずしもそれ だけが唯一の道ではないと主張しているところが印象的です。
さて第二に指摘しておきたいのは臨死体験との類似点です。目を開けてたトールにカーテ ンを貫いて、力強い朝日が降り注いだ時、そのまばゆい光を「人間の英知をはるかに超えた、 無限ななにか」であると感じ、「この暖かい光は、愛そのものなんだ!」と思ったというのは、 印象的です。まるで臨死体験者が、「光の生命」に出会い、その印象を語るのにそっくりです。
「その光に近づくにつれ、自分の存在の核まで貫くように思われる、純粋な愛としか呼び ようのない強力な波長に圧倒される。いまや思考はまったくなくなり、その光に完全に浸さ れている。あらゆる時が止まる。完璧な永遠。」
これは、多くの報告をもとにしてケネス・リングがまとめた臨死体験者の光体験のエッセ ンスですが、トールの体験と深くつながっていると感じるのは私だけではないでしょう。
第三に指摘したいのは、彼の「知覚」の変化についてです。「覚醒・至高体験の事例集」 の中でもこうした変化を語る例はいくつもあります。ひとつだけ例をあげます。
画家・林武は生活苦のなかで自分にとって一番大事な絵を捨てようと決心したときの心境 と体験を次のように語っています。
「それは一種の解脱というものであった。絵に対するあのすごい執着を見事にふり落としたのだ。僕には、若さのもつ理想と野心があった。自負と妻に対する責任から、どうしても 絵描きにならなければならなかった。だからほんとうに絵というものをめざして、どろんこ になっていた。そのような執着から離れたのであった。(中略)
外界に不思議な変化が起こった。外界のすべてがひじょうに素直になったのである。そこに立つ木が、真の生きた木に見えてきたのである。ありのままの実在の木として見えてきた。 (中略)
同時に、地上いっさいのものが、実在のすべてが、賛嘆と畏怖をともなって僕に語りかけた。きのうにかわるこの自然の姿──それは天国のような真の美しさとともに、不思議な悪魔のような生命力をみなぎらせて迫る。僕は思わず目を閉じた。それはあらそうことのできない自然の壮美であり、恐ろしさであった。」(林武『美に生きる』)
この文章は、この事例集の冒頭の「覚醒・思考体験とは?」で触れたマズローがいうD認識からB認識への変化をみごとに描写 しています。木が「真の生きた木、ありのままの実在の木」として見えたとは、主体との関 係や主体の意図によって歪曲されず、主体自身の目的や利害から独立した「それ自体の生命 (目的性)において」見られた(B認識)ということでしょう。そのとき「その情緒反応は、 なにか偉大なものを眼前にするような驚異、畏敬、尊敬、謙虚、敬服などの趣きをもつ」 (マズロー)のです。もちろん、トールに起こった「知覚」の変化もそのように理解できるでしょう。
トールは、この体験後、「なにものにもゆらぐことのない、深い平和と幸福に包まれた日々を送った」といいます。5ヵ月後、至福感はやわらいだような気がするが、それはたんに 至福感に慣れただけなのかも知れないとも言っています。
ともあれ、彼があの体験でつかんだ「宝」は、増えも減りもしないことはよくわかったといいます。つまり、彼の体験は、一時的な「至高体験」ではなく、まぎれもない「覚醒」だ ったのです。
◆あらゆるものに息づく生命
トールは、三十歳になるまで、たえまのない不安やあせりに苦しみ、自殺を考えたことも あるほどだといいます。 二十九歳の時のある晩、夜中に目を覚ました彼は「絶望のどん底だ」という強烈な思いにおそわれました。あらゆるものの存在が無意味に思われ、「この世のすべてを、呪ってやり たいほど」でした。しかも、自分自身こそが、もっとも無価値な存在のように感じられたの です。 「こんな悲惨な人生を歩むことに、いったい、なんの意味があるというのか? どうして、 これほど苦しみながら、生きていかなければならないのか?」
わたしの中にある「生きよう」という本能は、「もう存在したくない、いっそのこと消え てしまえたらいいのに」、という悲痛な願いに押しつぶされていたのです。わたしの頭の中 を、「こんな自分と生きていくなんて、まっぴらごめんだ!」という思いが、ぐるぐると回っていました。
すると突然妙なことに気づいたのです。「自分はひとりなのか、それともふたりなのだろうか?」 こんな自分と生きていくのが嫌だとすると、『自分』と『自分が一緒に生きていきたくないもうひとりの自分』という、ふたりの自分が存在することになります。そこでわたしは自分に言い聞かせました。 「きっと、このうちのひとりが、『ほんとうの自分』なのだ」 この時、わたしは、頭の中でつぶやいていたひとり言が、ピタリとやんでしまうという奇妙な感覚に、ハッとしました。
わたしの意識はしっかりしていましたが、わたしの思考は「無」の状態でした。次の瞬間、 わたしは、まるで竜巻のような、すさまじいエネルギーのうずに引きよせられていきました。 それは、最初はゆっくりで、次第に速度を増していきました。わたしはわけがわからず、恐怖でガタガタと震えはじめました。 その時「抵抗してはなりません」というささやきが胸に飛びこんできたのです。すると、 なぜか、恐れは消え去りました。わたしが観念して、エネルギーのうず、「空(くう)」に身をゆだねると、わたしはみるみるうちに、その中に吸いこまれていきました。そのあと、 なにが起こったのかは、まるっきり記憶にないのです。
翌朝、小鳥のさえずりに、目を覚ましました。まるで生まれてはじめて聞くかのような、 美しいさえずりでした。目は閉じたままでしたが、脳裏のスクリーンに、さんぜんと輝くダ イアモンドのようなイメージが見えました。「なるほど! ダイアモンドに声があるとするなら、きっとこんな声に違いない!」 わたしが目を開けると、力強い朝日が、カーテンを貫いて、わたしの部屋に降り注いでい ました。この時のわたしは、そのまばゆい光が「人間の英知をはるかに超えた、無限ななにか」であるということを、あたりまえのように知っていました。 「そうか、この暖かい光は、愛そのものなんだ!」 わたしの目には、涙があふれていました。寝床から飛び起き、部屋の中を歩き回りました。 ふだん見慣れているはずの部屋なのに、それまで、そのほんとうの姿を見ていなかったことに気づきました。目に映るすべてのものが新鮮で、生まれたばかりのようでした。手当たり次第に、そこら中のものを拾いあげてみました。えんぴつ、空っぽのビンなど、あらゆるも のに息づく生命と、その美しさに、ただただ驚くばかりなのです。
わたしは町へと飛びだしました。そして、「生命が存在する」という奇跡に感動しながら、町を歩き回りました。見るものすべてが新鮮で、わたしは自分が、赤ん坊にでもなったような気がしました。
◆「十字架の道」を越えて
トールの体験の記述は、その後のことなどまだ続くのですが、中心部分はここまです。こ の体験について感じたことをいくつか指摘したいと思います。
まず「十字架の道」とさとりについてです。 トール自身は自分の体験を次のように説明しています。――この体験が起こった夜、彼の 苦しみは限界に達していた。そのため「自分は不幸で、どうしようもないほとみじめだ」と いう思いを完全に捨て去るほかなかった。この思い(思考のでっち上げ)をあまりに徹底的に捨て去ったので、「にせの自分」は、空気を抜かれてぺしゃんこになってしまった。そこに残ったのが、永遠の存在である「ほんとうの自分」なのだ。――
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』の最後の方でトールは、耐え切れないほどの苦しみのさなかに、追いつめられてやむおえず小さな自己を捨て去り、「手放し」の境 地に至るのは「十字架の道」だと表現しています。ということは彼自身が「十字架の道」に よって覚醒を得たということです。
ところが興味深いことに彼は、「十字架の道」はさとりをひらくための旧式の方法で、つ い最近まではそれが唯一の方法だったが、これからは「十字架の道」だけが唯一の方法ではないといっているのです。さとりをひらくために苦しみを必要としないほど意識のレベルが高まった人間の数も着実に増えているというのです。
「十字架の道」以外の方法とは何でしょうか。伝統的な方法としてあげられるのは座禅、 瞑想といった修行法でしょう。しかし、たとえば臨済禅の方法などを見ると、修行者に「公案」などを課し、精神的に徹底的に追いつめるところがあるようですから、人工的に作られた「十字架の道」かも知れません。
トールがいっているのは、そうした痛みや苦しみを強いる修行法ではないようです。一言でいえば、過去と未来へのしがみつきをやめ、「いま、この瞬間」を100パーセント生きること。時間に生きるのではなく、いつも「いまに在る」ことを選ぶこと。「すでにそうであるもの」を完璧に受け入れること。この道を選ぶと、苦痛なしにさとりをひらけるという のです。
別の箇所では、「ほんとうの自分」「大いなる存在」につながる入口を次のように整理し ています。
1)インナーボディのエネルギー(気)を感じること。 2)強烈に「いまに在る」こと。 3)思考を止めること。 4)すべてをあるがままに受け入れること。
もちろんこの本の中では、これらのそれぞれについて、その具体的な方法にも触れながら 詳しく語っていますから、お読みください。
ともあれ、トール自身は「十字架の道」によって覚醒を得ましたが、現代は必ずしもそれ だけが唯一の道ではないと主張しているところが印象的です。
さて第二に指摘しておきたいのは臨死体験との類似点です。目を開けてたトールにカーテ ンを貫いて、力強い朝日が降り注いだ時、そのまばゆい光を「人間の英知をはるかに超えた、 無限ななにか」であると感じ、「この暖かい光は、愛そのものなんだ!」と思ったというのは、 印象的です。まるで臨死体験者が、「光の生命」に出会い、その印象を語るのにそっくりです。
「その光に近づくにつれ、自分の存在の核まで貫くように思われる、純粋な愛としか呼び ようのない強力な波長に圧倒される。いまや思考はまったくなくなり、その光に完全に浸さ れている。あらゆる時が止まる。完璧な永遠。」
これは、多くの報告をもとにしてケネス・リングがまとめた臨死体験者の光体験のエッセ ンスですが、トールの体験と深くつながっていると感じるのは私だけではないでしょう。
第三に指摘したいのは、彼の「知覚」の変化についてです。「覚醒・至高体験の事例集」 の中でもこうした変化を語る例はいくつもあります。ひとつだけ例をあげます。
画家・林武は生活苦のなかで自分にとって一番大事な絵を捨てようと決心したときの心境 と体験を次のように語っています。
「それは一種の解脱というものであった。絵に対するあのすごい執着を見事にふり落としたのだ。僕には、若さのもつ理想と野心があった。自負と妻に対する責任から、どうしても 絵描きにならなければならなかった。だからほんとうに絵というものをめざして、どろんこ になっていた。そのような執着から離れたのであった。(中略)
外界に不思議な変化が起こった。外界のすべてがひじょうに素直になったのである。そこに立つ木が、真の生きた木に見えてきたのである。ありのままの実在の木として見えてきた。 (中略)
同時に、地上いっさいのものが、実在のすべてが、賛嘆と畏怖をともなって僕に語りかけた。きのうにかわるこの自然の姿──それは天国のような真の美しさとともに、不思議な悪魔のような生命力をみなぎらせて迫る。僕は思わず目を閉じた。それはあらそうことのできない自然の壮美であり、恐ろしさであった。」(林武『美に生きる』)
この文章は、この事例集の冒頭の「覚醒・思考体験とは?」で触れたマズローがいうD認識からB認識への変化をみごとに描写 しています。木が「真の生きた木、ありのままの実在の木」として見えたとは、主体との関 係や主体の意図によって歪曲されず、主体自身の目的や利害から独立した「それ自体の生命 (目的性)において」見られた(B認識)ということでしょう。そのとき「その情緒反応は、 なにか偉大なものを眼前にするような驚異、畏敬、尊敬、謙虚、敬服などの趣きをもつ」 (マズロー)のです。もちろん、トールに起こった「知覚」の変化もそのように理解できるでしょう。
トールは、この体験後、「なにものにもゆらぐことのない、深い平和と幸福に包まれた日々を送った」といいます。5ヵ月後、至福感はやわらいだような気がするが、それはたんに 至福感に慣れただけなのかも知れないとも言っています。
ともあれ、彼があの体験でつかんだ「宝」は、増えも減りもしないことはよくわかったといいます。つまり、彼の体験は、一時的な「至高体験」ではなく、まぎれもない「覚醒」だ ったのです。
『合気神髄―合気道開祖・植芝盛平語録 』
たしか大正14年の春だったと思う。私が一人で庭を散歩していると、突然天地が動揺して、大地から黄金の気がふきあがり、私の身体をつつむと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。それと同時に、心身共に軽くなり、小鳥のささやきの意味もわかり、この宇宙を創造された神の心が、はっきり理解できるようになった。
その瞬間、私は『武道の根源は、神の愛――万有愛護の精神――である』と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。その時以来、私は、この地球全体が我が家、日月星辰はことごとく我がものと感じるようになり、眼前の地位や、名誉や、財宝はもち ろんのこと、強くなろうという執着も一切なくなった。
『武道とは、腕力や凶器をふるって相手の人間を倒したり、兵器などで世界を破壊 に導くことではない。真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森 羅万象を正しく生産し、まもり育てることである』と私は悟った。すなわち『武道の 鍛練とは、森羅万象を正しく産み、まもり、育てる神の愛の力を、我が心身の内で鍛練することである。
また別の箇所で植芝は、つぎのようにも言っている。
私は武道を通じて肉体の鍛練をし、その極意をきわめたが、武道を通じて、はじめて宇宙の神髄を掴んだとき、人間は『心』と『肉体』と、それをむすぶ『気』の三つが完全に一致して、しかも宇宙万有の活動と調和しなければいけないと悟った。 『気の妙用』によって、個人の心と肉体を調和し、また個人と全宇宙との関係を調和するのである。
その瞬間、私は『武道の根源は、神の愛――万有愛護の精神――である』と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。その時以来、私は、この地球全体が我が家、日月星辰はことごとく我がものと感じるようになり、眼前の地位や、名誉や、財宝はもち ろんのこと、強くなろうという執着も一切なくなった。
『武道とは、腕力や凶器をふるって相手の人間を倒したり、兵器などで世界を破壊 に導くことではない。真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森 羅万象を正しく生産し、まもり育てることである』と私は悟った。すなわち『武道の 鍛練とは、森羅万象を正しく産み、まもり、育てる神の愛の力を、我が心身の内で鍛練することである。
また別の箇所で植芝は、つぎのようにも言っている。
私は武道を通じて肉体の鍛練をし、その極意をきわめたが、武道を通じて、はじめて宇宙の神髄を掴んだとき、人間は『心』と『肉体』と、それをむすぶ『気』の三つが完全に一致して、しかも宇宙万有の活動と調和しなければいけないと悟った。 『気の妙用』によって、個人の心と肉体を調和し、また個人と全宇宙との関係を調和するのである。
ガンガジ ポケットの中のダイアモンド
On: 2009年6月30日火曜日
私の師と向き合うことになったとき、すでに私は自分を高める努力をずいぶんと重ねていました。性格、感情、神経症を改善し、比較的成果も挙がっていました。心理療法、アファメーション、瞑想、数々のワークショップ、チャネリング、占星術、ヴィジュアライゼーション、自動書記、ダンス、向精神薬、あらゆる欲望の実践、あるいは抑圧――この苦しみを軽くしようと、私は様々な方法を試みました。自分を愛そうとも思いましたし、憎もうとしてみました。しかし何ひとつ、効果はありませんでした。もちろん素晴らしい瞬間を体験したこともありました――天啓、喜び、至福感、そして平安に満ちた瞬間です。それでも、そのすべてを、苦しみの糸が貫いていたのです。私自身の頭の中にネガティブな考えや敵対心は湧き起こり続けましたし、私の周囲の人々の中にもそれらが生まれるのを私は目にし続けました。
その時点の私の人生は、一般的なものさしで測れば素晴らしいものでした。私は二人目の夫、イーライを心から愛しており、私たちの間にはすべての面で、生き生きとした、情熱的な関係がありました。私の娘は自分の人生に満足していました。健康状態もまずまずでしたし、経済力はほとんどの人のそれを上回っていました。私は自分の仕事を愛し、その価値を信じていました。それでも、私はそれ以上のものを探し続けていました。私は自分が持っているものを失うのを恐れ、将来に希望を馳せたり、将来を恐れたり、を繰り返していました。
私はクタクタでした! 私は、自分自身にも、日々自分を改善する努力に充てる、絶え間ない注意にも、すっかり幻滅していたのです。私は、自分がある周期にのっとって自分との関係を持っていることに気づいていました。その周期の一端には、自分に満足し、人生はうまくいっている、という感覚があり、反対の端には、迫り来る破局、人生の底に流れる惨めな経験、そして、宇宙全体の状況は絶望的である、という確信がありました。その周期を何百回と繰り返すと、すっかりそれに慣れてきます。浮かんでくる思考も、イメージも、感情も、結論も、すべては以前にもあったものです。嫉妬、羨望、初めは感覚的、知的満足を、やがては精神的な満足を与えてくれる経験の探求――それらはみな私を、私にとっての不満足状態に連れ戻すのです。
私の「物語」はある人の物語とは違うけれどある人の物語とは似ている、ということには気づいていたものの、私はまだ物語を信じており、私の苦しみは続いていました。私の心の中と外面の生活の出来事のほとんどを、悲しいほどにロマンチックな物語が覆っていることに私は気づいていましたが、この物語が現実でないなどとは夢にも思わなかったのです。どうしたらいいのかわかりませんでした。比較的幸せで、ときには深い充実感さえ感じながら、名づけることのできない何かを強く切望するなということがあり得るのでしょうか? この、心理的な苦悩のもつれを解きほぐすために、私は知っている限りの手を尽くしていました。
とうとう私は、助けが必要であることを認めました。私は師を必要としていたのです。真実の師、本物の、決定的な師が現れるように祈りました。本物の師、本物の教えとはどういうものか、その結果がどういうものになるのか、私にはまったくわかりませんでした。ただ、もがき苦しむことから解放されたい、ということだけはわかっていました。私は私の真実の存在を実感したかったけれど、どうしたらそれができるのかわかりませんでした。私は、自分の知る限りの手を尽くしたことを認め、そしてついに降参したのです。真実の師が見つかることを祈ってからわずか六ヶ月のうちに、奇跡的な状況が重なり、私はインドでH・W・プーンジャ(パパジ)と向かい合っていました。
パパジは私を普通以上の歓迎のしかたで迎えてくれました。目をキラキラさせながら私を迎え入れ、彼が私に与えられるものは何であれ持っていきなさい、と言ったのです。私の資格をチェックすることも、私のカルマをチェックすることも、長所を数え上げることもパパジはしませんでした。私が彼に会えて興奮していることを彼は私の目に見て取り、そしてこう言ったのです。「何が欲しいのか言ってごらん」私は答えました。「自由です。すべてのもつれや思い違いから自由になりたいのです。最終的で絶対の真実というものが本当にあるかどうか知りたいのです。何をしたらいいか教えてください。」パパジはまず「正しい場所に来たね」と言い、それから「何もしないでいなさい。あなたの問題のすべては、あなたが行動し続けることにある。すべての行為をストップしなさい。信じることも、探し求めることも、言い訳することも。すでに、そして常にここにあるものをあなた自身で見つけなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間に、じっとしていなさい」と言いました。
私はそのときじっと座っていたので、いったいパパジが何を行っているのかわかりませんでした。それから、彼は肉体的行為のことを言っているのではない、ということに気づきました。そうではなくて、パパジは私に、すべての精神的な行為を止めるように指示していたのです。頭の中で疑問や恐れが聞こえました。もし考えるのを止めたら、肉体を気遣うこともなく、朝ベッドから起きることも、車を運転することも、仕事に行くこともできない――私は恐怖でいっぱいになりました。探し求めるのを止めたら、ここまでの探求の中で手に入れたと思っていた地盤を失ってしまうような気がしました。自分が手にいれたように感じていたものの一部をなくしてしまうかもしれない、と。
けれどもパパジの存在感は偉大で、その、彼の目を見つめた瞬間、私はそこに、力、明晰さ、そして広大さを認め、それが私の足を止めたのです。師が与えられることを求めたのは私でした。そしてその瞬間、幸運にも私には、自分が求めた師の言うことに注意を払うだけの分別があったのです。その瞬間私は、何ごともいとわずに、恐怖の底にある思考を追うことも信じることも止め、初めはどうしようもない絶望の深淵のように思われたところに落ちていきました。すると、私が追い求めていた充足感と平和はここにあること、それはこれまでもずっとここにあったということ、そしてそれがなくなる可能性はない、ということが明らかになったのです。何より驚いたことに、そのことを私はずっと知っていた、ということに私は気づいたのです!
その瞬間私は、これまで私が欲しがってきたもののすべては、すでにここに、純粋で永遠なる存在の地盤として存在しているということに気づきました。私が「私」「私のもの」と呼んでいた苦しみのすべては、この輝く純粋な存在の中で起こっていたことでした! そして、何よりも重要なこと、つまり、私の本当の姿とはすなわちこの存在である、ということがわかたったのです。そしてこの存在は、あらゆるところに、見えるもの、見えないものすべての中に在るのです。
このことに気づいたとき、私という存在の物語から、物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深みへと、驚くべきフォーカスの転換が起こりました。それは何という平安、何という休息だったでしょう! それまでにも私には宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間がありまあしたが、これはまったくその性質が違っていました。それはいわば冷静な恍惚状態であり、その瞬間、私は「私」という物語に縛られてはいない! ということに気づいたのです。
その瞬間私が気づいたことのシンプルさは信じがたいものでした。そんなにシンプルなことであるはずがない、と思っていたのです。私はずっと、罪、欲望、好戦性、憎しみ、そしてカルマがなくならない限り、この平安には到達できないと教えられてきましたし、教えられたことを信じてきました。やっと私は、私が何を考えたにしろ、それはいつでも思考にすぎず、条件付けの影響を受けたり消えてなくなる可能性があったりする以上、信頼のおけないものである、ということに気づいたのです。真実を発見したとき、もはや思考を信頼することはできませんでした。思考は私の主人ではなくなったのです。知らない、ということに対して抱いてた恐れは、知らないということの喜びに姿を変えました。知らない、ということが、思考では認知できないものに私の心を開いてくれたのです。何という安堵感、何という素晴らしい解放感だったでしょう!
その時点の私の人生は、一般的なものさしで測れば素晴らしいものでした。私は二人目の夫、イーライを心から愛しており、私たちの間にはすべての面で、生き生きとした、情熱的な関係がありました。私の娘は自分の人生に満足していました。健康状態もまずまずでしたし、経済力はほとんどの人のそれを上回っていました。私は自分の仕事を愛し、その価値を信じていました。それでも、私はそれ以上のものを探し続けていました。私は自分が持っているものを失うのを恐れ、将来に希望を馳せたり、将来を恐れたり、を繰り返していました。
私はクタクタでした! 私は、自分自身にも、日々自分を改善する努力に充てる、絶え間ない注意にも、すっかり幻滅していたのです。私は、自分がある周期にのっとって自分との関係を持っていることに気づいていました。その周期の一端には、自分に満足し、人生はうまくいっている、という感覚があり、反対の端には、迫り来る破局、人生の底に流れる惨めな経験、そして、宇宙全体の状況は絶望的である、という確信がありました。その周期を何百回と繰り返すと、すっかりそれに慣れてきます。浮かんでくる思考も、イメージも、感情も、結論も、すべては以前にもあったものです。嫉妬、羨望、初めは感覚的、知的満足を、やがては精神的な満足を与えてくれる経験の探求――それらはみな私を、私にとっての不満足状態に連れ戻すのです。
私の「物語」はある人の物語とは違うけれどある人の物語とは似ている、ということには気づいていたものの、私はまだ物語を信じており、私の苦しみは続いていました。私の心の中と外面の生活の出来事のほとんどを、悲しいほどにロマンチックな物語が覆っていることに私は気づいていましたが、この物語が現実でないなどとは夢にも思わなかったのです。どうしたらいいのかわかりませんでした。比較的幸せで、ときには深い充実感さえ感じながら、名づけることのできない何かを強く切望するなということがあり得るのでしょうか? この、心理的な苦悩のもつれを解きほぐすために、私は知っている限りの手を尽くしていました。
とうとう私は、助けが必要であることを認めました。私は師を必要としていたのです。真実の師、本物の、決定的な師が現れるように祈りました。本物の師、本物の教えとはどういうものか、その結果がどういうものになるのか、私にはまったくわかりませんでした。ただ、もがき苦しむことから解放されたい、ということだけはわかっていました。私は私の真実の存在を実感したかったけれど、どうしたらそれができるのかわかりませんでした。私は、自分の知る限りの手を尽くしたことを認め、そしてついに降参したのです。真実の師が見つかることを祈ってからわずか六ヶ月のうちに、奇跡的な状況が重なり、私はインドでH・W・プーンジャ(パパジ)と向かい合っていました。
パパジは私を普通以上の歓迎のしかたで迎えてくれました。目をキラキラさせながら私を迎え入れ、彼が私に与えられるものは何であれ持っていきなさい、と言ったのです。私の資格をチェックすることも、私のカルマをチェックすることも、長所を数え上げることもパパジはしませんでした。私が彼に会えて興奮していることを彼は私の目に見て取り、そしてこう言ったのです。「何が欲しいのか言ってごらん」私は答えました。「自由です。すべてのもつれや思い違いから自由になりたいのです。最終的で絶対の真実というものが本当にあるかどうか知りたいのです。何をしたらいいか教えてください。」パパジはまず「正しい場所に来たね」と言い、それから「何もしないでいなさい。あなたの問題のすべては、あなたが行動し続けることにある。すべての行為をストップしなさい。信じることも、探し求めることも、言い訳することも。すでに、そして常にここにあるものをあなた自身で見つけなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間に、じっとしていなさい」と言いました。
私はそのときじっと座っていたので、いったいパパジが何を行っているのかわかりませんでした。それから、彼は肉体的行為のことを言っているのではない、ということに気づきました。そうではなくて、パパジは私に、すべての精神的な行為を止めるように指示していたのです。頭の中で疑問や恐れが聞こえました。もし考えるのを止めたら、肉体を気遣うこともなく、朝ベッドから起きることも、車を運転することも、仕事に行くこともできない――私は恐怖でいっぱいになりました。探し求めるのを止めたら、ここまでの探求の中で手に入れたと思っていた地盤を失ってしまうような気がしました。自分が手にいれたように感じていたものの一部をなくしてしまうかもしれない、と。
けれどもパパジの存在感は偉大で、その、彼の目を見つめた瞬間、私はそこに、力、明晰さ、そして広大さを認め、それが私の足を止めたのです。師が与えられることを求めたのは私でした。そしてその瞬間、幸運にも私には、自分が求めた師の言うことに注意を払うだけの分別があったのです。その瞬間私は、何ごともいとわずに、恐怖の底にある思考を追うことも信じることも止め、初めはどうしようもない絶望の深淵のように思われたところに落ちていきました。すると、私が追い求めていた充足感と平和はここにあること、それはこれまでもずっとここにあったということ、そしてそれがなくなる可能性はない、ということが明らかになったのです。何より驚いたことに、そのことを私はずっと知っていた、ということに私は気づいたのです!
その瞬間私は、これまで私が欲しがってきたもののすべては、すでにここに、純粋で永遠なる存在の地盤として存在しているということに気づきました。私が「私」「私のもの」と呼んでいた苦しみのすべては、この輝く純粋な存在の中で起こっていたことでした! そして、何よりも重要なこと、つまり、私の本当の姿とはすなわちこの存在である、ということがわかたったのです。そしてこの存在は、あらゆるところに、見えるもの、見えないものすべての中に在るのです。
このことに気づいたとき、私という存在の物語から、物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深みへと、驚くべきフォーカスの転換が起こりました。それは何という平安、何という休息だったでしょう! それまでにも私には宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間がありまあしたが、これはまったくその性質が違っていました。それはいわば冷静な恍惚状態であり、その瞬間、私は「私」という物語に縛られてはいない! ということに気づいたのです。
その瞬間私が気づいたことのシンプルさは信じがたいものでした。そんなにシンプルなことであるはずがない、と思っていたのです。私はずっと、罪、欲望、好戦性、憎しみ、そしてカルマがなくならない限り、この平安には到達できないと教えられてきましたし、教えられたことを信じてきました。やっと私は、私が何を考えたにしろ、それはいつでも思考にすぎず、条件付けの影響を受けたり消えてなくなる可能性があったりする以上、信頼のおけないものである、ということに気づいたのです。真実を発見したとき、もはや思考を信頼することはできませんでした。思考は私の主人ではなくなったのです。知らない、ということに対して抱いてた恐れは、知らないということの喜びに姿を変えました。知らない、ということが、思考では認知できないものに私の心を開いてくれたのです。何という安堵感、何という素晴らしい解放感だったでしょう!
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