エックハルト・トール

On: 2009年7月8日水曜日

 エックハルト・トールの『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる 』(徳間書店、2002年)に私は大きな影響を受けました。この本の冒頭には、彼自身の覚醒体験が語られています。非常に印象深く、 この事例集にぜひ取り上げたいと思いました。以下にその体験を紹介し、若干 コメントを付け加えます。
◆あらゆるものに息づく生命
  トールは、三十歳になるまで、たえまのない不安やあせりに苦しみ、自殺を考えたことも あるほどだといいます。  二十九歳の時のある晩、夜中に目を覚ました彼は「絶望のどん底だ」という強烈な思いにおそわれました。あらゆるものの存在が無意味に思われ、「この世のすべてを、呪ってやり たいほど」でした。しかも、自分自身こそが、もっとも無価値な存在のように感じられたの です。  「こんな悲惨な人生を歩むことに、いったい、なんの意味があるというのか? どうして、 これほど苦しみながら、生きていかなければならないのか?」
  わたしの中にある「生きよう」という本能は、「もう存在したくない、いっそのこと消え てしまえたらいいのに」、という悲痛な願いに押しつぶされていたのです。わたしの頭の中 を、「こんな自分と生きていくなんて、まっぴらごめんだ!」という思いが、ぐるぐると回っていました。
 すると突然妙なことに気づいたのです。「自分はひとりなのか、それともふたりなのだろうか?」  こんな自分と生きていくのが嫌だとすると、『自分』と『自分が一緒に生きていきたくないもうひとりの自分』という、ふたりの自分が存在することになります。そこでわたしは自分に言い聞かせました。 「きっと、このうちのひとりが、『ほんとうの自分』なのだ」   この時、わたしは、頭の中でつぶやいていたひとり言が、ピタリとやんでしまうという奇妙な感覚に、ハッとしました。
 わたしの意識はしっかりしていましたが、わたしの思考は「無」の状態でした。次の瞬間、 わたしは、まるで竜巻のような、すさまじいエネルギーのうずに引きよせられていきました。 それは、最初はゆっくりで、次第に速度を増していきました。わたしはわけがわからず、恐怖でガタガタと震えはじめました。   その時「抵抗してはなりません」というささやきが胸に飛びこんできたのです。すると、 なぜか、恐れは消え去りました。わたしが観念して、エネルギーのうず、「空(くう)」に身をゆだねると、わたしはみるみるうちに、その中に吸いこまれていきました。そのあと、 なにが起こったのかは、まるっきり記憶にないのです。
 翌朝、小鳥のさえずりに、目を覚ましました。まるで生まれてはじめて聞くかのような、 美しいさえずりでした。目は閉じたままでしたが、脳裏のスクリーンに、さんぜんと輝くダ イアモンドのようなイメージが見えました。「なるほど! ダイアモンドに声があるとするなら、きっとこんな声に違いない!」 わたしが目を開けると、力強い朝日が、カーテンを貫いて、わたしの部屋に降り注いでい ました。この時のわたしは、そのまばゆい光が「人間の英知をはるかに超えた、無限ななにか」であるということを、あたりまえのように知っていました。 「そうか、この暖かい光は、愛そのものなんだ!」   わたしの目には、涙があふれていました。寝床から飛び起き、部屋の中を歩き回りました。 ふだん見慣れているはずの部屋なのに、それまで、そのほんとうの姿を見ていなかったことに気づきました。目に映るすべてのものが新鮮で、生まれたばかりのようでした。手当たり次第に、そこら中のものを拾いあげてみました。えんぴつ、空っぽのビンなど、あらゆるも のに息づく生命と、その美しさに、ただただ驚くばかりなのです。
  わたしは町へと飛びだしました。そして、「生命が存在する」という奇跡に感動しながら、町を歩き回りました。見るものすべてが新鮮で、わたしは自分が、赤ん坊にでもなったような気がしました。 
◆「十字架の道」を越えて
  トールの体験の記述は、その後のことなどまだ続くのですが、中心部分はここまです。こ の体験について感じたことをいくつか指摘したいと思います。
  まず「十字架の道」とさとりについてです。   トール自身は自分の体験を次のように説明しています。――この体験が起こった夜、彼の 苦しみは限界に達していた。そのため「自分は不幸で、どうしようもないほとみじめだ」と いう思いを完全に捨て去るほかなかった。この思い(思考のでっち上げ)をあまりに徹底的に捨て去ったので、「にせの自分」は、空気を抜かれてぺしゃんこになってしまった。そこに残ったのが、永遠の存在である「ほんとうの自分」なのだ。――
  『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』の最後の方でトールは、耐え切れないほどの苦しみのさなかに、追いつめられてやむおえず小さな自己を捨て去り、「手放し」の境 地に至るのは「十字架の道」だと表現しています。ということは彼自身が「十字架の道」に よって覚醒を得たということです。
  ところが興味深いことに彼は、「十字架の道」はさとりをひらくための旧式の方法で、つ い最近まではそれが唯一の方法だったが、これからは「十字架の道」だけが唯一の方法ではないといっているのです。さとりをひらくために苦しみを必要としないほど意識のレベルが高まった人間の数も着実に増えているというのです。
   「十字架の道」以外の方法とは何でしょうか。伝統的な方法としてあげられるのは座禅、 瞑想といった修行法でしょう。しかし、たとえば臨済禅の方法などを見ると、修行者に「公案」などを課し、精神的に徹底的に追いつめるところがあるようですから、人工的に作られた「十字架の道」かも知れません。
   トールがいっているのは、そうした痛みや苦しみを強いる修行法ではないようです。一言でいえば、過去と未来へのしがみつきをやめ、「いま、この瞬間」を100パーセント生きること。時間に生きるのではなく、いつも「いまに在る」ことを選ぶこと。「すでにそうであるもの」を完璧に受け入れること。この道を選ぶと、苦痛なしにさとりをひらけるという のです。
   別の箇所では、「ほんとうの自分」「大いなる存在」につながる入口を次のように整理し ています。
1)インナーボディのエネルギー(気)を感じること。 2)強烈に「いまに在る」こと。 3)思考を止めること。 4)すべてをあるがままに受け入れること。
   もちろんこの本の中では、これらのそれぞれについて、その具体的な方法にも触れながら 詳しく語っていますから、お読みください。
   ともあれ、トール自身は「十字架の道」によって覚醒を得ましたが、現代は必ずしもそれ だけが唯一の道ではないと主張しているところが印象的です。
  さて第二に指摘しておきたいのは臨死体験との類似点です。目を開けてたトールにカーテ ンを貫いて、力強い朝日が降り注いだ時、そのまばゆい光を「人間の英知をはるかに超えた、 無限ななにか」であると感じ、「この暖かい光は、愛そのものなんだ!」と思ったというのは、 印象的です。まるで臨死体験者が、「光の生命」に出会い、その印象を語るのにそっくりです。
   「その光に近づくにつれ、自分の存在の核まで貫くように思われる、純粋な愛としか呼び ようのない強力な波長に圧倒される。いまや思考はまったくなくなり、その光に完全に浸さ れている。あらゆる時が止まる。完璧な永遠。」
  これは、多くの報告をもとにしてケネス・リングがまとめた臨死体験者の光体験のエッセ ンスですが、トールの体験と深くつながっていると感じるのは私だけではないでしょう。  
  第三に指摘したいのは、彼の「知覚」の変化についてです。「覚醒・至高体験の事例集」 の中でもこうした変化を語る例はいくつもあります。ひとつだけ例をあげます。
   画家・林武は生活苦のなかで自分にとって一番大事な絵を捨てようと決心したときの心境 と体験を次のように語っています。  
  「それは一種の解脱というものであった。絵に対するあのすごい執着を見事にふり落としたのだ。僕には、若さのもつ理想と野心があった。自負と妻に対する責任から、どうしても 絵描きにならなければならなかった。だからほんとうに絵というものをめざして、どろんこ になっていた。そのような執着から離れたのであった。(中略)
  外界に不思議な変化が起こった。外界のすべてがひじょうに素直になったのである。そこに立つ木が、真の生きた木に見えてきたのである。ありのままの実在の木として見えてきた。 (中略)
  同時に、地上いっさいのものが、実在のすべてが、賛嘆と畏怖をともなって僕に語りかけた。きのうにかわるこの自然の姿──それは天国のような真の美しさとともに、不思議な悪魔のような生命力をみなぎらせて迫る。僕は思わず目を閉じた。それはあらそうことのできない自然の壮美であり、恐ろしさであった。」(林武『美に生きる』)
   この文章は、この事例集の冒頭の「覚醒・思考体験とは?」で触れたマズローがいうD認識からB認識への変化をみごとに描写 しています。木が「真の生きた木、ありのままの実在の木」として見えたとは、主体との関 係や主体の意図によって歪曲されず、主体自身の目的や利害から独立した「それ自体の生命 (目的性)において」見られた(B認識)ということでしょう。そのとき「その情緒反応は、 なにか偉大なものを眼前にするような驚異、畏敬、尊敬、謙虚、敬服などの趣きをもつ」 (マズロー)のです。もちろん、トールに起こった「知覚」の変化もそのように理解できるでしょう。
  トールは、この体験後、「なにものにもゆらぐことのない、深い平和と幸福に包まれた日々を送った」といいます。5ヵ月後、至福感はやわらいだような気がするが、それはたんに 至福感に慣れただけなのかも知れないとも言っています。
  ともあれ、彼があの体験でつかんだ「宝」は、増えも減りもしないことはよくわかったといいます。つまり、彼の体験は、一時的な「至高体験」ではなく、まぎれもない「覚醒」だ ったのです。   

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