ガンガジ  ポケットの中のダイアモンド

On: 2009年6月30日火曜日

私の師と向き合うことになったとき、すでに私は自分を高める努力をずいぶんと重ねていました。性格、感情、神経症を改善し、比較的成果も挙がっていました。心理療法、アファメーション、瞑想、数々のワークショップ、チャネリング、占星術、ヴィジュアライゼーション、自動書記、ダンス、向精神薬、あらゆる欲望の実践、あるいは抑圧――この苦しみを軽くしようと、私は様々な方法を試みました。自分を愛そうとも思いましたし、憎もうとしてみました。しかし何ひとつ、効果はありませんでした。もちろん素晴らしい瞬間を体験したこともありました――天啓、喜び、至福感、そして平安に満ちた瞬間です。それでも、そのすべてを、苦しみの糸が貫いていたのです。私自身の頭の中にネガティブな考えや敵対心は湧き起こり続けましたし、私の周囲の人々の中にもそれらが生まれるのを私は目にし続けました。

その時点の私の人生は、一般的なものさしで測れば素晴らしいものでした。私は二人目の夫、イーライを心から愛しており、私たちの間にはすべての面で、生き生きとした、情熱的な関係がありました。私の娘は自分の人生に満足していました。健康状態もまずまずでしたし、経済力はほとんどの人のそれを上回っていました。私は自分の仕事を愛し、その価値を信じていました。それでも、私はそれ以上のものを探し続けていました。私は自分が持っているものを失うのを恐れ、将来に希望を馳せたり、将来を恐れたり、を繰り返していました。

私はクタクタでした! 私は、自分自身にも、日々自分を改善する努力に充てる、絶え間ない注意にも、すっかり幻滅していたのです。私は、自分がある周期にのっとって自分との関係を持っていることに気づいていました。その周期の一端には、自分に満足し、人生はうまくいっている、という感覚があり、反対の端には、迫り来る破局、人生の底に流れる惨めな経験、そして、宇宙全体の状況は絶望的である、という確信がありました。その周期を何百回と繰り返すと、すっかりそれに慣れてきます。浮かんでくる思考も、イメージも、感情も、結論も、すべては以前にもあったものです。嫉妬、羨望、初めは感覚的、知的満足を、やがては精神的な満足を与えてくれる経験の探求――それらはみな私を、私にとっての不満足状態に連れ戻すのです。

私の「物語」はある人の物語とは違うけれどある人の物語とは似ている、ということには気づいていたものの、私はまだ物語を信じており、私の苦しみは続いていました。私の心の中と外面の生活の出来事のほとんどを、悲しいほどにロマンチックな物語が覆っていることに私は気づいていましたが、この物語が現実でないなどとは夢にも思わなかったのです。どうしたらいいのかわかりませんでした。比較的幸せで、ときには深い充実感さえ感じながら、名づけることのできない何かを強く切望するなということがあり得るのでしょうか? この、心理的な苦悩のもつれを解きほぐすために、私は知っている限りの手を尽くしていました。

とうとう私は、助けが必要であることを認めました。私は師を必要としていたのです。真実の師、本物の、決定的な師が現れるように祈りました。本物の師、本物の教えとはどういうものか、その結果がどういうものになるのか、私にはまったくわかりませんでした。ただ、もがき苦しむことから解放されたい、ということだけはわかっていました。私は私の真実の存在を実感したかったけれど、どうしたらそれができるのかわかりませんでした。私は、自分の知る限りの手を尽くしたことを認め、そしてついに降参したのです。真実の師が見つかることを祈ってからわずか六ヶ月のうちに、奇跡的な状況が重なり、私はインドでH・W・プーンジャ(パパジ)と向かい合っていました。

パパジは私を普通以上の歓迎のしかたで迎えてくれました。目をキラキラさせながら私を迎え入れ、彼が私に与えられるものは何であれ持っていきなさい、と言ったのです。私の資格をチェックすることも、私のカルマをチェックすることも、長所を数え上げることもパパジはしませんでした。私が彼に会えて興奮していることを彼は私の目に見て取り、そしてこう言ったのです。「何が欲しいのか言ってごらん」私は答えました。「自由です。すべてのもつれや思い違いから自由になりたいのです。最終的で絶対の真実というものが本当にあるかどうか知りたいのです。何をしたらいいか教えてください。」パパジはまず「正しい場所に来たね」と言い、それから「何もしないでいなさい。あなたの問題のすべては、あなたが行動し続けることにある。すべての行為をストップしなさい。信じることも、探し求めることも、言い訳することも。すでに、そして常にここにあるものをあなた自身で見つけなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間に、じっとしていなさい」と言いました。

私はそのときじっと座っていたので、いったいパパジが何を行っているのかわかりませんでした。それから、彼は肉体的行為のことを言っているのではない、ということに気づきました。そうではなくて、パパジは私に、すべての精神的な行為を止めるように指示していたのです。頭の中で疑問や恐れが聞こえました。もし考えるのを止めたら、肉体を気遣うこともなく、朝ベッドから起きることも、車を運転することも、仕事に行くこともできない――私は恐怖でいっぱいになりました。探し求めるのを止めたら、ここまでの探求の中で手に入れたと思っていた地盤を失ってしまうような気がしました。自分が手にいれたように感じていたものの一部をなくしてしまうかもしれない、と。

けれどもパパジの存在感は偉大で、その、彼の目を見つめた瞬間、私はそこに、力、明晰さ、そして広大さを認め、それが私の足を止めたのです。師が与えられることを求めたのは私でした。そしてその瞬間、幸運にも私には、自分が求めた師の言うことに注意を払うだけの分別があったのです。その瞬間私は、何ごともいとわずに、恐怖の底にある思考を追うことも信じることも止め、初めはどうしようもない絶望の深淵のように思われたところに落ちていきました。すると、私が追い求めていた充足感と平和はここにあること、それはこれまでもずっとここにあったということ、そしてそれがなくなる可能性はない、ということが明らかになったのです。何より驚いたことに、そのことを私はずっと知っていた、ということに私は気づいたのです!

その瞬間私は、これまで私が欲しがってきたもののすべては、すでにここに、純粋で永遠なる存在の地盤として存在しているということに気づきました。私が「私」「私のもの」と呼んでいた苦しみのすべては、この輝く純粋な存在の中で起こっていたことでした! そして、何よりも重要なこと、つまり、私の本当の姿とはすなわちこの存在である、ということがわかたったのです。そしてこの存在は、あらゆるところに、見えるもの、見えないものすべての中に在るのです。

このことに気づいたとき、私という存在の物語から、物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深みへと、驚くべきフォーカスの転換が起こりました。それは何という平安、何という休息だったでしょう! それまでにも私には宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間がありまあしたが、これはまったくその性質が違っていました。それはいわば冷静な恍惚状態であり、その瞬間、私は「私」という物語に縛られてはいない! ということに気づいたのです。

その瞬間私が気づいたことのシンプルさは信じがたいものでした。そんなにシンプルなことであるはずがない、と思っていたのです。私はずっと、罪、欲望、好戦性、憎しみ、そしてカルマがなくならない限り、この平安には到達できないと教えられてきましたし、教えられたことを信じてきました。やっと私は、私が何を考えたにしろ、それはいつでも思考にすぎず、条件付けの影響を受けたり消えてなくなる可能性があったりする以上、信頼のおけないものである、ということに気づいたのです。真実を発見したとき、もはや思考を信頼することはできませんでした。思考は私の主人ではなくなったのです。知らない、ということに対して抱いてた恐れは、知らないということの喜びに姿を変えました。知らない、ということが、思考では認知できないものに私の心を開いてくれたのです。何という安堵感、何という素晴らしい解放感だったでしょう!

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